top of page

2.母が障害者になった日

5月20日
読了時間: 4分

父が35歳、母が27歳のとき、

僕は名古屋の病院で生まれました。

予定日より1週間ほど早かったけれど、

そのおかげで?1月1日に健康で生まれたのです。


父は知人と一緒に、ぶるばーる(Boulevard)という名前の

100席ある喫茶店の店長をしていて、

当時はコーヒーが1杯200円。

休日の朝食は家族で喫茶店に行く文化のある名古屋という土地柄もあってか、

一番売上のあった昭和56年の売上帳を見せてもらうと、

1月1日は7時~22時の営業で来店客1322人、売上76万450円と書いてありました。

平均すると1時間に88人が来店して5万円を売上げていたことになり、

バブルの時代の凄さがわかります…。


今では考えられませんけど、税務署の職員が、

父の喫茶店は地域で一番の売り上げだとこっそり教えてくれたらしいです。

同じ地域には、あのコメダ珈琲もあり、

「コメダの社長もよくウチに来ていた」と父は言っていました。


子供にとって自慢できるようなお店だったんです。

でも父は仕事の話は家では一切しなかったし、

自慢する性格でもなかったので、

僕はこの話を40年くらい知らなかったんです…。

もっと早く教えてくれればよかったのに…。


幻の名店だったと私は思っています。



母は、父と結婚するまでは岐阜にあるリコーの工場で腕時計を作っていました。

二人の出会いはお見合いで、母にはいつかお店を持ちたいという夢があり、

父が既に商売をやっていたこともあって結婚へと進んだようです。


そんな幸せな夫婦に、暗雲が立ち込めたのは僕が生まれる少し前のことでした。

母は23歳の時、会社の健康診断で尿蛋白の異常を指摘されて受診すると、

ネフローゼ症候群と診断されました。

その後、2年ほど通院しましたが、父との生活のため名古屋へ引っ越し、

病院まで遠くなったので通うのを止めてしまいました。

慢性腎炎だったので、これ以上よくならないことはわかっていたようです。


母は結婚する前に、父に「子供が産めないかもしれないよ」と言うと、

父は「俺、子供嫌いだからいいよ」と答えたようです。

そして二人は結婚して、僕を妊娠して5ヶ月経った頃、

胎児への影響を心配して近くの診療所を受診しました。


そこで妊娠中毒症(現在の妊娠高血圧症候群)と診断され、

先生は母の体への負担を考えて「子供は産んでも一人だけだよ」と言いました。


母が診療所に通い始めて数ヶ月した頃から、

目の前がぼやけて見えたり、

人や車が二重三重に見えたりするといった異変が起こりました。


先生に目の症状の話をすると、鍼灸師を紹介してくれて、

眉のところに鍼を刺してもらったら一時見えるようになったと言います。


そして、僕は無事に生まれたんですが、

1歳半になる頃、母の腎臓と視力が急激に悪化していきました。


ある日の診察で診療所の先生から、「今すぐ行きなさい」と、

透析専門の病院を紹介され、

受診した時には既に腎臓は機能していなかったようです。


一刻を争う事態だったので、

すぐにシャントを作る緊急手術をして入院。


その日は奇しくも母の29歳の誕生日だったんです。


おめでたいはずの誕生日が、

死ぬまで一生続けなくてはならない透析が始まった日となってしまいました。


しかし、苦難はそれだけで終わらず、

透析をするとサーッと目の前が暗くなりました。

そのうちほとんど視力がなくなり、

透析を始めて3ヶ月後、

眼科医を紹介されて検査をすると腎性網膜症と診断されました。


既に網膜が剥がれており、視力回復の見込みはありませんでした。


母は、自分ではもう目は治らないとわかっていたようですが、

万が一にも可能性があるならという親族の願いを汲んで手術をしました。


しかし、結果は変わらず。

母にとって29歳は、腎不全と失明という重度の障害を2つも負ってしまう年になりました。

そして、1歳半以降の私の成長をその目で見ることができなくなったのです。



昨日まで見えていたものが

一生見えなくなる

それはあまりにひどい現実だ

誰の慰めも届かない

受け取りたくもない

なぜどうして自分だけが

自分を責めて傷つけて

いっそ消えてしまえたらいいのに

bottom of page